リバタリアニズム論
日本法哲学会大会報告要旨とレジュメ
2004.11.13.広島大学にて
橋本努
大会報告要旨
自己所有権テーゼの直観的正当化を図るリバタリアニズムの主張は、どこまで有効であろうか。本報告では、成長論的自由主義ないし自生化主義と私が呼ぶ立場(ハイエク的自由主義の一亜種)から、批判的検討を試みたい。自由主義とリバタリアニズムのあいだの思想的争点は多岐にわたり、また、リバタリアニズム内部での見解の不一致もみられる。しかしここでは、森村進氏の自由主義批判(『自由はどこまで可能か』講談社現代新書)に応じるかたちで、問題を焦点化したい。また立岩真也氏の平等主義に対しても、合わせて応じたい。
基本的な論点となるのは、(1)自己所有権テーゼ、(2)所得再配分の正当性、(3)制度ないし政策の理念に結びつく人格論、の三つである。そしてここから、さまざまな具体的制度・政策論が派生的に問題となる。
森村氏は、身体の自己所有権テーゼを「眼球くじ」というパラダイム例によって生理的に正当化するが、しかし別の例を用いるならば、このテーゼの論拠は揺らぐであろう。その揺らぎを成長論的に解釈しながら所有の問題に対処しようというのが、成長論的自由主義の企てである。成長論はまた、いまだ誰も所有していないような、潜在的次元の成長(新たな所有対象物の生成と促進)を問題にする。制御の快楽(森村)や存在の快楽(立岩)とは別の、潜在(デュナミス)の快楽というものに焦点を当てる。
所得再配分の正当性をめぐっては、森村氏と立岩氏の立場が真っ向から対立する。一方は、所有権の原理的正当化によって再配分を否定し、他方は、最小福祉国家の立場から再配分を最大限に正当化する。これに対して成長論的自由主義は、第三の立場を取ると同時に、両極に立場には税制上のオプションを与えるようなシステムを構想する。第三の立場とは、妥協的な現実主義ではない。それは一方では、所有の原理主義的正当化に代えて、理念主義的企図を掲げる。また他方では、祭司権力的再配分に代えて、野生促進的な再配分を展望する。いわば庭師の発想をもって、社会の諸力を自生化しようとするのである。この「自生化主義」の立場は、所得再配分を平等の観点から正当化するのではなく、これを自由の積極的利用という観点から擁護できると考える。
人格像をめぐって、森村流リバタリアニズムは、いかなる人格像にも依拠しない生理的水準から善き制度を構想するが、他のリバタリアンはむしろ、積極的な人格象を掲げている(例えば、アイン・ランドの逞しき個人の美学や、ロスバードやミーゼスの理性的制御力)。立岩氏のように、「所有の政治」に対して、存在の高貴さを保証する「存在の政治」を掲げる立場もある。これに対して成長論的自由主義は、積極的自由概念の解釈換え(「自由への自由」)とその称揚、自己奴隷化契約の破棄における寛容、デュナミス的快楽の促進、功利主義やコーポラティズムの否定による政治闘争の制度化、といった点において、成長を企てる制度-人格理念を掲げることになるだろう。しかし最後に、成長という理念が孕む難点について、省察を深めなければならない。
0.はじめに
1.私的所有権の正当性
a.「眼球くじ」というパラダイム例
b.配分の正当性に関する直観的正当化
c.潜在的次元の成長という問題
2.所得再配分の正当性
a.所有権の原理主義的擁護論:所得再配分に対する原理的批判
b.配分する最小国家:所得の平等+国家的福祉政策(祭司的権力)の否定
c.成長(潜在能力の拡大)のための配分
3.人格論
a.リバタリアニズムの人格論
a−1.非人格論:ノージック(権原論)、森村進(生理学)
a−2.逞しき個人主義の美学:アイン・ランド
a−3.行為理性論:ミーゼス、ロスバード、バーネット
b.存在の高貴さという政治的人格像
c.成長論的主体:
d−1.積極的自由の解釈換え:「自由への自由」
d−2.自己奴隷化契約の破棄における寛容
d−3.デュナミスの快楽
d−4.功利主義やコーポラティズムの否定:成長をめぐる政治闘争
4.成長論的自由主義の制度設計